2020年度後期卒業礼拝(3月6日)のメッセージ

去る3月6日に本校の卒業礼拝が行われました。新型コロナウイルス対策で卒業生と担任のみの出席、校長の祝辞と牧師先生のメッセージは放送で行いました。卒業生の中にも参加できなかった人がいますし、一番傍で支えて下さった保護者の方の参加もかないませんでした。少し日が経ってしまいましたが、当日のメッセージと式辞を記載いたします。ぜひお読みください。

【津田一夫牧師メッセージ(日本基督教団醍醐教会、本校講師)】

新約聖書 ローマの信徒への手紙8章24-28節

「わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、"霊"も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、"霊"自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、"霊"の思いが何であるかを知っておられます。"霊"は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。」

いつもなら、みなさんと顔と顔を合わせて、目と目を合わせてお話しているところであります。ところが今日は、まったく顔が見えない。不思議な卒業式です。皆さんにとってもそうでしょう。いつもなら、ずらりと卒業生全員が居並ぶ中で、友達の晴れやかな顔を見て、互いに気分も高揚し、熱気につつまれているでしょう。着物も人もいるでしょう、スーツで決めている人も、普段の自分らしい姿で臨む人も、びっくりするような衣装で来る人もいるでしょう。ところが今日は、それら普段の卒業式の風物詩が見られない。
だからあえて、今日は、目を閉じて、耳を澄まし、声だけを頼りに、頭のなかで想像する卒業式といたしましょう。その意味でも、非常に特別な卒業式です。そして、このような卒業式だからこそ、みなさんと一緒に考えたいことがある。それは希望、ということです。

卒業式は、もちろん旅立ちのとき、希望のときです。みなさんの胸の中にも、卒業後はこれをしよう、あれもしてみたいと、種々様々な希望が息づいていることでしょう。すばらしいことです。ぜひ、邁進していってほしい。しかし、その前にひとつだけ、希望について、聖書の言葉に耳を傾けたい。
「見えるものに対する希望は希望ではありません」(ローマ8:24)。
希望は、本来、目に見えないものだというのです。いや、そんなことはない、自分は進路も決まっているし、やりたいことも明確だという人もいるかもしれません。それでも、聖書はいいます。「希望は目に見えません」と。

決してみなさんを落胆させようしているのではありません。あるいは単に、未来のことだからまだ分からないというのではありません。希望はすばらしいし、ぜひもってほしい。
でも、一つだけ、心のどこかにとどめておいてほしい。その希望が見えなくなってしまうとき、分からなくなってしまうときが人生には訪れるということを。もっとはっきり言えば、希望を失ってしまったと嘆き悲しむようなことが人生には起きる、ということです。
「望む道に行けなかった」「せっかく順調に歩んでいたのに不慮の病気や事情で断念せざるを得なかった」など、年齢に関係なく、人生では希望が見えなくなってしまうということが起こります。そのとき聖書はいうのです。
「目に見えないものを望んでいるからこそ、忍耐して待ち望むのです」(同25節)。
希望が見えないときにこそ、希望は本物の希望になる、と。

わたしはキリスト教系の保育園をやっていますが、先日経営関係の会議があり、そこに新メンバーが入ってきました。わたしよりずいぶん若い方でしたが、ご自身いろんな苦労を通り抜けてきたのでしょう、発言が直接的で明快、会議でも異彩を放ち、大変助かりました。終了後挨拶し、自己紹介で「わたしは毎週YMCA学院高校で聖書の授業をしています」というと、「僕もYMCAの学校出身なんです」とのお答えにびっくりしました。卒業後いろんな施設で働き、現在は保育園園長をやっているが、当初は保育園をやるなんて想像していなかった。いろんな苦労はあったが、一つひとつ全力で向き合い、あきらめずに歩んできた。
「目に見えない」からこそ「忍耐して」歩んできた、と。

今日は、多くの仲間や先生の顔をみることのできない特別な卒業式と申し上げました。でも、あらためて、そのことこそが神さまからの特別なメッセージではないかと思いました。
「それでも、希望はそこにある」とのメッセージです。

このようなマイクでの卒業式であっても、壁の向こうでは、友だちや先生が確かにそこにいる。君たちを祝福している人がいる。君たちのために祈ってくれている人がいる。見えなくても確かにみんないる。希望もそれとまったく同じ。見えないけれど、確かにそこにある。見えないからこそ尊い。見えないからこそ価値がある。いっとき見失うときがくるかもしれない。でもそれは、希望がなくなったのではない。希望が本物の希望になろうとしているのだ。希望は必ず君たちを待っていてくれる。君たちに会おうと手ぐすね引いて、わくわくして、身構えている。だから、忍耐しよう。希望を信じてじっくり歩みを進めよう。

希望を胸に今日旅立っていく皆さんの上に、神様のあふれる祝福を祈ります。

【校長 鍛治田千文 式辞】

みなさん卒業おめでとうございます

ここにいるみなさんの中でYMCAの入学礼拝に出席した人は3分の1くらいではないでしょうか。つらい思いをして、この学校に来てくれた人も少なくないでしょう。私は3年前の入学礼拝で、「私の願いは卒業の時にみなさんが生きる力と自立する力をもつこと、そして何より一生幸せに過ごせることだ」とお話ししました。生きる力や幸せは、自己肯定感から生まれてきます。みなさんは今、自分のことが好きですか?

聖書では誰もがみんな賜物を持っていると言っています。聞きなれない言葉ですが、神様からのギフトであるタラントのことです。これは俳優を指すタレントという言葉の語源です。みなさんは生まれながらタレントを持っています。人と比べて足りないところがある、と自分で思っている人もいるかもしれませんが、それも賜物です。人と比べて足りない分、助けてもらえる賜物、それぞれお互いに支えあえる機会を作ってくれているのです。一人で頑張らなくていいのです。困った時は困ったと言える、相談できることも賜物です。お互いに仕える、誰かと生きる、YMCAが大切にしてきたことです。

今週木曜日、YMCA学院高校藤沢校の卒業式にいってきました。13人の卒業生という小さな学校です卒業生代表として一人の男子が話しました。中学時代の冬眠後(彼は引きこもりのことを冬眠といいます)、YMCAに入学。でも入学式後はまた冬眠。単位が危ないので7月に慌ててスクーリングに出席、また後期も冬眠、そして最低数のスクーリングだけ出席しました。2年生からはなんとか行こうと思い、小さなクラスなのでみんなが暖かく迎え入れ、卒業まで休み休み通えたようです。でも体育の単位は取りにくく、補講として体育の教員と江の島をみながら海岸をずっと歩いたときは、ほとんど知らない大人と二人で歩く、という強烈なストレスで苦しくて苦しくて仕方がなかったと言っていました。「これから一年かけて大学に行く準備をしようと思えるようになった。友人や家族、教員に感謝でいっぱいだ」と語ってくれました。でも実はその二日前に、「卒業生代表で話することはできない」と学校に連絡があり、教員が心配して家に行くと布団をかぶっていたようです。「卒業生代表なのに自分のことを話すのはどうか。自分はだめだ。」と大泣きしたようです。「あなたらしくしたらいいよ」との教員の声かけで卒業式になんとか来れたそうです。助けたくなる人、これも賜物です。弱さが賜物です。神様からのギフトです。弱さがあるから、支えあえるのです

YMCAを卒業したことはこれからあなたの支えになるでしょう。世界の5分の3以上、120の国と地域にYMCAがあります。今6千万人の人がYMCAで活動しています。YMCAに関わった人は世界中に何億人といます。これからあなたの人生でYMCAに関係した人と出会うことがたくさんあるでしょう。YMCAに行っていたと言うだけで私たちは信頼関係を結ぶことができます。必ずあなたの人生を豊かにしてくれるでしょう。

みなさんは、自分で自分の限界を決めないでください。
これからもあきらめない。へこたれてもまた立ち上がる。
みんなが生きているだけで、そこにいるだけで十分ですから。
ずっと応援しています。